旧内黒田村は、栗山村の北、手繰川流域右岸台地上に位置する。内畔田村とも
記された(桜井家古文書)。東の裏谷津、西の裏谷津に水田があり、両谷津が
台地を囲むように北端部で合流する。水田は強湿田であったといわれる。
寛文9年(1669年)検地帳(大熊家古文書)に下総国印旛郡臼井庄内黒田
とあり、甲府様(徳川綱重)家来鈴木四郎左衛門(重俊)の知行地とある。
反別16町7反余、分米102石余、名請人として21人と西光院(さいこう
いん、現無住)が確認できる。
二代将軍徳川秀忠から旗本 鈴木重成(重勝の次男)は、上総国、下総国を采地
として200石を与えられ、大番を務める。
寛永10年(1633年)重俊(重成の嫡子)は、200石を与えられ、正保
2年(1645年)に甲州藩徳川綱重の御抱守となり、承応2年(1653年)
頃、綱重の用人となる。(寛政重修諸家譜)。
元禄8年(1695年)の甲府様御人聚中分限帳(甲州文庫)では、鈴木四郎
左衛門の知行高は1904石余とある。
元禄13年(1700年)頃の下総国各村級分では59石余、鈴木四郎左衛門
(直澄、重俊の子)の知行地と大熊家古文書「検地帳」に記載されている。
宝永2年(1705年)采地替により下総国から鈴木氏の知行はなくなった。
(佐倉藩領となる。)
西光院の本寺は、臼井台町(佐倉市)實蔵院で、鎮守熊野神社は年田にあり、
永和2年(1376年)の創建と伝えられる(印旛郡誌)。年中行事として、
「はだか参り」がある。
北端の大谷にある万延元年(1860年)銘の庚申塔には、「右をぼかや(生谷、
現佐倉市)さくら通、左あぜた(畔田、現佐倉市)しも志づ通」とある。