◎御山(おやま)の金剛寺跡・・・室町時代中頃に山岳信仰を深めた修験者の道場であった金剛寺は、最盛期には、周囲150余村に、1000人余の信徒を抱えた。明治元(1868)年の神仏分離令で廃寺。現在、不動堂、光明真言五十万遍読誦(どくじゅ)塔など9件の市指定文化財がある。
◎道祖神・・・村の入り口や辻等に置かれる。疫病や悪霊の村への進入を防ぐ役目、旅人の安全を守る、道の神や村を守る神といろいろな役目を持つ。四街道市には「道祖神」が18基確認されている。
◎古屋城跡・・・土塁とその周囲に五段の空堀が回されている。全体の規模は、およそ南北200m、東西150mと比較的規模の大きな城跡である。高台(現況畑)の井戸内から「白磁」や「鏡」が発見され、「白磁の井戸」として市指定文化財に指定されている。築城時期は概ね室町期(1390年以降)から戦国期と考えられる。
◎霊嶽山円福寺(れいがくさんえんぷくじ)・・・当山は、真言宗豊山派の寺院で、ご本尊は大日如来である。物井地区の菩提寺の役割をもち、伽藍の一角にその墓地がならぶ。創建時期を特定できる書面等は無いが、当山に伝わる「物井の享禄元年(1528年)の板碑」(市指定文化財)の刻面の年代の「それ以前」とされる。伽藍は、三門、本堂、六地蔵と庫裡や大師堂がある。円福寺は千葉寺十善講の札所番号64である。
◎円福寺の火渡り祭り・・・伝統行事として、荒行の火渡り儀式が例年3月最後の日曜日13時から行われる。
住職と導師が渡った後、信徒や一般の人が無病息災を祈って渡る。渡る者は、護摩壇前の塩で足を清めた後、護摩壇に上がって、進み、檀を降りたら、もう一箇所の塩で足を冷やして、祭壇に拝礼して終わる。
◎秩父三十四番供養塔・・・男性の奥州参りに対して、女性の秩父参りは「女一生の給金」とも言われ、信仰と
観光の側面もあった。一回の参加者は初期の頃は十人前後であり、男性の先達(せんだつ)が付く事から察して
巡拝出来る人は恵まれていたと推察できる。秩父参りは平成の現代も継続されている。市内に187基確認。
◎南小学校百周年記念碑・・・明治6(1873)年に産声をあげた物井学校と亀崎学校。やがて明治26(1893)年に旧亀崎、物井、長岡、栗山と内黒田各村を学区とする千代田尋常小学校となった。終戦後の昭和22(1947)年からの六三制で千代田北小、千代田南小としてスタートしたが、昭和30(1955)年の四街道町誕生に際し、佐倉市に編入となった千代田地域の北部5地区の「千代田北小」は佐倉市に編入となった。こうして「南小学校」の校名が誕生した。
◎天照皇大神社(てんしょうこうだいじんじゃ)・・・当社は、村民の家内安全、農業守護と殖産興業を司る産土神としての信を集めている。現状は大正元(1912)年に村内の、氏神を含む五社(大宮・朝日・大日・香取・八幡神社)を、熊野神社である当社を存続させて合祀と改称を行ない、天照皇大神(あまてらすおおみかみ)を主祭神として今日に至っている。境内には、鳥居(神明系)、狛犬、流造(ながれづくり)の屋根の拝殿と渡り廊下でつながる本殿などが揃う。当社の例祭は、毎年10月15日で、前後に子供神輿の巡行を行なう。
◎荻原家長屋門・・・長屋門は近世諸大名の武家屋敷として発生した形式で、江戸時代に多く建てられた。諸大名は、自分の屋敷の周囲に、家臣などのための長屋を建て住まわせていたが、その一部に門を開いて、一棟とした物が長屋門の始まりである。その後、長屋門は有力武士の武家住宅の表門の形式とし手広く利用されるようにようになっていった。武家屋敷の長屋門では、門の両側部分に門番の部屋や仲間部屋が置かれ、家臣や使用人の居所に利用された。また郷村武士の家格をもつ家や、苗字帯刀を許された富裕な農家・庄屋でも長屋門は作られた。更に明治以降は他の富農の家屋敷にも作られるようになった。このような長屋門では、門の両側部分は使用人の住居・納屋・作業所などに利用された。四街道市内には長屋門が18確認。
◎北年貢道・・・年貢道とは、嘗ての物井村が年貢米を佐倉藩が指定する御蔵迄運搬した道を指し、現在の物井三差路から村中を通って佐倉城内の椎木門脇の椎木御蔵に至るか、栗山、四街道十字路を経由して現在の千葉市中央区寒川一丁目辺りの寒川(さんが)御蔵に至る道を正しくは千葉佐倉街道(通称・北年貢道)と呼んだ。
これに対し現在の国道51号線に重なる道があり、通称南年貢道と呼んだ。年貢米の運搬手段は馬を用い、馬1匹に米2俵を左右に振り分けて積んだ。
◎庚申塔 (こうしんとう)・・・庚申の夜は、本来、恐慎恐懼(きょうしんきょうく)して眠らずに過すべきものとされたが、室町時代以降は庶民に広がる一方で、日待ち、月待ちの習俗と結合して庚申待ちと云われる「一晩を通うじて語り明かす」のが通例で、江戸時代の中頃から青面金剛への願いが共通となり、石塔の造立が目立った。四街道市内に庚申塔は28基確認。
◎馬頭観音・・・仏像の世界では六観音の一つに数えられ、畜生道に堕ちた衆生に対して、馬が草を食むように人々の煩悩を貪(むさぼ)り食い尽くして救済してくれる観音と伝わる。馬頭観音は、奈良時代に既に我が国に伝わったが、鎌倉時代以降は、馬が重要な交通手段であったことから、交通安全の守護神に変容し、更に、馬の労を労(ねぎら)う観音として、庶民に浸透していった。無病息災と畜類救済が得られるとされる。市内に64基確認。今回のコースに馬頭観音が無い場合は削除する。
◎出羽三山供養塔・・・出羽三山とは月山・羽黒山・湯殿山である。江戸期は湯殿山をその奥の院とし中心的な存在であったが、明治元年(1868)年3月の神仏分離令により仏教色は排除され月山を中心とする神の山に変った。成人男子が、一生の内一度はお参りすることにより地域社会から一人前と認められる通過儀礼の一つであった。帰参後は正月、五月、九月、一年に3回、8日講を行い、数年後に三山名と同行者名を刻む塔を建てる。平成の現在も続いている。四街道市内に217基確認。
◎旧石器時代遺跡・・・日本列島の旧石器時代は今から約4万年前から1,5万年前迄をいう。無土器時代、先土器時代ともいう。全国で10,000ヶ所確認されている。四街道市内で17ヶ所確認、その中で最古、約3,5万年前の遺跡が発掘された場所が、ここ「小屋の内遺跡」です。この付近から縄文遺跡、弥生遺跡も発掘されています。平安時代の283軒の住居跡、142棟の掘立柱建物跡などが発見されました。
◎稲荷塚遺跡・・・「さとくらし公園」が稲荷塚遺跡の場所です。ここからも旧石器が発掘されました。平安時代の229軒の住居跡、53棟の掘立柱建物跡が発見されました。この公園の樹木も素晴らしい、何種類あるか確認してみよう。