標的はルボン山 突進!ル・ボォ~ン



現在、四街道駅の北口側には大型商業施設、病院、公園、市役所、文化施設などが集まり、都市の中心核を形成していますが、この一帯に、かつて軍事施設が建ち並んでいたことを知る市民は少なくなっています。「軍郷の面影コース」は軍郷として街が形成され、戦後、いち早く非核宣言都市となり、ベッドタウンとして発展した四街道の近代の歴史をたどります。


かつて四街道は佐倉藩の一部でした。幕末の佐倉藩主・堀田正陸
(まさよし)は洋式兵学など西洋の学術(蘭学)を奨励し、日本を開国へと先導する役割を担いました。しかし、外国船の侵入が各地に相次ぎ、幕府が江戸湾の異国船警備を命じたことから、佐倉藩は砲術訓練に力を入れ、現在の四街道市を含む下志津原に砲術射的場を築造しました。木戸場(現佐倉市)から砲弾を発射し、南へ約3㎞の大土手山(現四街道市)を標的としました。砲弾の着弾点ですから、その周囲は人家も畑もない荒野だったことでしょう。


佐倉藩の砲術は明治政府に引き継がれ、
1873年(明治6)政府はフランス陸軍のジョルジュ・ルボン砲兵大尉を教官として招き、その指導により大土手山を増築するなど射的場を整備しました。1886年(明治19)には木戸場に陸軍砲兵射的学校が開設。しかし1894年(明治27)大土手山の南方数百メートルの場所に総武鉄道が敷設され、四街道駅が開設されると、1897(明治30)年、射的学校は四街道に移転し、やがて「陸軍野戦砲兵学校」と改称されました。周囲には次々と軍関連施設が置かれ、四街道駅北口周辺は軍郷として街が形作られてゆきました。


戦後、これらの施設は役場や学校などとして
1970年代まで活用され、その一部は現在でも、愛国学園大学正門などに面影を留めています。